「アナ雪よりも断然イイ!」と大絶賛だ。
じゃぁ父ちゃんも、と言う事です。
一言で言うと「それ程(大絶賛)のモノか?」と言うのが正直な感想。
いや、決して悪い訳ではない、いいよ、イイですよ、父ちゃんの基準は十分に超えていますし「アナ雪」と比べれば確かに“上”を行ってるかもしれない。
バディもののクライムサスペンスになるのだろうか?
ド定番の展開を上手に見せている。
擬人化された動物が繰り広げるスタンダードなストーリーは特別目新しい展開ではないもののその見せ方(演出)はスバラシイと言える。
全体として非常によく出来た作品であり、何時もの様に普通にレビューを書いていたら「ベタ褒め」の作品になる事は間違いないのだが・・・・
何が引っかかってるのか?と言えば、作品そのものではなくポンの大絶賛の様相である。
“父ちゃんとポンの感性の違い”
と言えばそれまでだしポンの感想を否定する気も更々ない。
でも、本人には内緒で“何故ポンがこの作品をこれほどまでに大絶賛するのか?”と言うのをバカ親の視点から勝手に考察してみようと思う。
ネタバレを含む・・・かな?
ポンは完全に主人公に同化している。
主人公は小さい頃の夢に向かって努力をし皆に笑われ親にも(やんわりと)否定された“ウサギで初めての警察官”となる。
この作品は“偏見”と言う太っいテーマが隠される事無く根底に流れている。
「ひ弱なウサギ」であり「ズル賢いキツネ」であったりだ。
ズートピアに入る場面でその情景や住人の様子が描かれる、ズートピアには様々な動物が暮らしており、画的には体の大小を比較とした演出で住人達が描かれるシーンがある、が、あくまでも紹介シーンであり大小の比較は観客に与えるインパクトとしての演出である。
物語が始まると主人公は大男の中に異分子として徹底的に“排除される側”として描かれ、大いに傷つく。
その逆境を跳ね返すかのように孤軍奮闘する中で一癖も二癖もあるバディと出会う。
そしてそのバディとの確執を経て最終的に成長し、大団円を迎えるのである。
主人公が対峙するのは皆“大きな”相手である。
極小のネズミとも対峙するがこのネズミが登場する場面は“ネズミだらけの小さなワールド内”であり“強者vs弱者”としての退避表現ではないし、直接対峙するビッグボスは権力と言う見方をすればやはり“大きい相手”であり登場シーンも通常住民よりも更に大きい強面のシロクマを配下に据え 見た目とのギャップ演出で登場する。
唯一カワウソさんは同じような大きさであるが、コレは対立を示す相手ではない。
最終的にヴィランであった羊さんは主人公サイドの“弱者”として描かれる。
最終のドンデンの伏線であると同時に孤軍奮闘する主人公を同族とする事で“弱者”をより増幅させる機能も持つ、うん、巧い演出である。
必要以上の逆境にを乗り越えて大団円を迎える流れは多くの観客に受け入れられるだろうし、何度も言うがとにかく演出が巧い!
さて、ポンである。
この作品を見た普通の人よりもポンは何割か増しで主人公に同化していると思われる。
遺伝なので謝っても謝りきれないし頑張ってどうにかなるモノでもないがポンは“小さい”
対峙する相手は皆“大きい”
コレだけでも主人公に同化するには割り増し要素である(汗;
ポンは“努力の人”である!
自他共に認める“我が子大好き、スーパーバカ親”の父ちゃんはポンの事もチンの事も「天才だ」と言って憚らない!
が実はポンは努力してのし上がるタイプなのだ。
努力と鍛錬に裏打ちされた自信は(過剰な場合もあるがね)ちっとやそっとの事では崩れない。
が、やはり認められるには人一倍の努力が必要な事も身を以て知っている・・・筈。
この映画では“奇跡の様な偶然の積み重ねで事件が解決する”と言った流れではなく、ちゃんと主人公の努力だとか“夢”等の伏線描写がしっかりと描かれている。
もちろん時間内の納める為に都合のいい偶然が皆無ではないのだが、それ等を「ご都合主義」と思わせない上手な演出でカバーしている。
「夢は叶う」「努力は報われる」と言った「甘ちゃんなんだよ」とスかした奴等が言いそうな事をドストレートにエンターテイメントに仕上げているトコロがポンの心を鷲掴みにしたのではないだろうか?
う~~~ん、書いていて「この作品スゲェいいんじゃないのと思い始めてきた(笑
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